【短編小説】ウラ社会作ろーぜ!

 〈2026年某日〉

 小さな段ボール三つにまとめられている『ウラ社会通信』。

 この冊子の存在を知っている人間は、誰かが口外でもしない限り、日本中探しても三人だけ。

 インターネット上にも情報は存在しないし、もちろんAIに学習されるはずもない。

 あのインターネットが世界のインフラになってしまったいまなお、誰に強制されるわけでもなく、こんな冊子の存在をひた隠しにする俺たちは何なんだろう。

 うん、四十三のおっさんたちで何をやってるんだろう。

 一人は社会と家庭に消えた。

 もう一人は実力が開花した。

 そして、残りの一人は、こうして勤続二十一年の会社で毎月の手取りにため息をつくばかりだ。

 先代の社長が引退して、後釜を継いだ副社長のやり方があまりにもひどいので、役員の一人が独立することになった。

 我が経理部からも一人引き抜かれた。

 もちろん、晩年係長の俺なんかに声がかかるはずもなかった。

 社内に嵐が吹き荒れるなか、なるべく風が当たらないように立ち回りつつ、日々サポート切れの経理システムと睨みあっている。

 いまの会社に入れたのは高校の漫研の先輩の伝手あってこそだ。

 俺らの頃から就職氷河期が始まったので、大学の就活だけでは限界があった。

 に、してもだ。

 何も、誰にも迷惑をかけていないのに減給されるのは堪える。

 これから先が見えない。

 会社だってさっそく傾き始めている。

 安定なんて幻想に過ぎないのは分かってるつもりでいた。

 だが、人間、尻に火がつかないと何も分からない生き物らしい。

 この1DKに住んで初めて家賃交渉までした。

 八千円ほど安くしてもらった分、一階に住む管理人さんと顔をあわせづらくなったが、いまの俺には馬鹿にできない金額だ。

 管理人さんに挨拶するときは気まずい。

 非常に気まずいのだが、一方で何か爽快な気分を感じて、その気分がずいぶん長く続いた。

 これ、なんだろうな。

 ぼんやり思いながら『ウラ社会通信』の最新号が回ってきたとき、ふと気づいた。

 久しぶりに、自分で決めたことを自分でやったな、と。

 家賃交渉なんてことを、必要に迫られたとはいえ、自分で決断してやり遂げたのが爽快だったのだ。

 安いカップ酒がこぼれないよう気をつけながら『ウラ社会通信』を開く。

 やっぱりあいつ、うまいな。

 『ウラ社会通信』は、いまとなってはおっさん同士の近況報告に過ぎない。

 ひとつだけ特殊なのは、漫画形式になっていること。

 ヤスシはプロの漫画家になった。

 描くものがことごとく尖っているので、同業者からも読者からもキワモノ扱いされている。

 実際、むかしから変人だった。

 パンデミックの渦中、自粛とリモートワークの窮屈さが頭に来たといって、いまは東京と札幌の二拠点体制で仕事をしている。

 地元からも才能を発掘したいし、東京と札幌を行き来するだけで見える景色が全然違う。

 何より、動き回るのが性に合っている。

 そんなことも『ウラ社会通信』に描いていた。

 かなり紙幅を割いて、恨み節のように。

 タローは半分幽霊会員みたいなもので、デザインで食っていくと初めから宣言していた。

 北海道を出て、東京の専門学校に通い、内定が決まっていた神奈川のデザイン事務所に入ってからはヤツのことはよく知らない。

 そして、今回は俺が描く番だ。

 カップ酒を半分も空けるとほろ酔い気分になってきた。

 酒に強くない体も得なもんだな、と思いつつ『ウラ社会通信』のページをめくる。

 今回のヤスシの漫画も相変わらず尖っていた。

 すべてのコマが妙に印象に残るのはプロの技としかいいようがない。

 デフォルメされたキャラクターが、突然有名な漫画のパロディのような画風になったり、九十年代に流行ったゲームのオマージュが織り込まれていたりと、いちいちこちらのツボを突いてくる。

 本業の片手間にここまで描けるのも、さすがプロだ。

 今回も、いつも通り十六ページ。

 その最後のページに差し掛かったときだった。

 ーーうちのアシが”幻の第八号”を持ってるんだけど、そのうち読んでみるか?

 目玉が飛び出るかと思った。

 そんなの、読むに決まっている。

 幽霊会員だったタローが唯一『ウラ社会通信』に寄稿したのが”幻の第八号”だ。

 あれが、いつ、どこで皆の手元から消えたのか、俺にもヤスシにも分からない。

 そんないきさつがあったので、後年、修行中のヤスシと安い居酒屋で飲んだときに”幻の第八号”という名前がついた。

 手元からなくなったときこそ大して気にしていなかったが、あれから二十年以上経ったいまは話が違う。

 札幌のアホ高校の漫研で、その場の勢いで『ウラ社会通信』の創刊が決まった一場面を思い出す。

 あのときの、気だるさと高揚感が入り混じった空き教室で繰り広げられた、ありとあらゆる出来事がよみがえる。

 心のなかで久しぶりに薪がくべられ、火がついた。

 景気づけにカップ酒をもうひとつ開けた。

 明日は祝日だが始発に乗らなきゃいけない。

 どうせ祝日が潰れるんだから、小さな仕事の二つや三つ、潰してもいいだろう。

 もう一度『ウラ社会通信』の冒頭に戻って、今度は一コマずつじっくりと読んだ。

 どうしてあいつのアシスタントが”幻の第八号”を持ってるんだ? という疑問を抱きながら。


<2001年某日>

「ウラ社会作ろーぜ!」

 瀬戸康(せと やすし)が唐突に、目をらんらんと輝かせながら大音声を挙げた。

 また、アホのヤスシの独演劇が始まったようだ。

 その日、漫画研究会には幽霊会員の最川正太郎(もがわ しょうたろう)も顔を出していた。

 最川ことタローは呆れ顔で、

「また始まったよ」

「いや、今度は本気だって!」

「で? ウラ社会って?」

「インターネットに絶対存在を知られない社会!」

 俺は、ヤスシが大手サイトの管理人だと知っている。

 タローも話だけは聞いているようだが、ネット環境がないのでいまいちピンと来ないらしい。

 俺は漫画を描く手を止めて、

「具体的にどんなことするんだよ」

「具体的には、ノープランだ!」

 俺とタローは同時にため息をついた。

「ひとつだけ決まってるのは、何が何でもネットに存在を漏らさないことだ」

「なしてよ」

 タローが相変わらずの表情で尋ねると、

「もうサイトやるのがイヤになってきたんだわ」

 ヤスシは、自分のサイトに限らず『ホームページ』のことを頑なに『サイト』と呼ぶ。

 確かに『ウェブサイト』を『ホームページ』というのは日本ぐらいで、和製英語みたいなものだ。

 俺はヤスシのサイトの常連でもあったので、BBSにもよく書き込みをしている。

「イヤになったって、例の粘着してる奴らか?」

「それもある。あいつらはカマドウマ程度にしか思ってないから、まあいいんだけどさあ」

「何だよ」

「最近、ネットユーザが増えただろ? 別のところでもウォッチされて悪口いわれてるんだよ」

 俺はホームページを作る技術なんてひとつも知らなかったが、いっぱしのネットユーザとして『ネチケット』の低い輩が少なからず居ることは知っていた。

「大手ってそんなもんなの?」

 ヤスシはこくりと頷いた。

「だから、ネットと関わらない何かが欲しい」

 タローは相変わらず事情が飲み込めない様子だが、

「『ホームページ』を持つのも大変なんだな」

 と呟くと、当のヤスシは、

「自分でも大手やるのがこんなに大変だって思わなかったわ」

 と独り言ちながら、本棚にずらりと並ぶ漫画や書籍を物色し始めた。

 何度同じものを読めば気が済むんだか。

 こいつは、このアホ高校のなかでも突き抜けてアホだ。

 勉強ができない、という意味合いではない。

 むしろ、教師たちからは「真剣に勉強すれば大学に行ける」といわれるほどで、決して脳みそに何も入っていないわけじゃない。

 所構わずはしゃいだり、テスト用紙の裏に絵やショート漫画を描いたり、登校中にチャリを飛ばして事故を起こしかけたり、体育の走り幅跳びで「世界新記録!」と叫びながら飛んだ挙句、尻もちをついて腰をケガしたり。

 とにかくアホなエピソードに事欠かないので『アホのヤスシ』呼ばわりされているのだ。

 馬鹿と何とかは紙一重、というやつだ。

 いま、景気が冷え込んで、就職氷河期とやらに突入して久しい。

 派遣切りや非正規雇用問題といった言葉がニュースから飛び出して、俺たちにも迫りつつある。

 高卒よりは大卒のほうがまだ望みがある、といったところだ。

 なのに、こいつは本気で漫画家を目指している。

 進学も就活も何も目に入っていない。

 むしろ、自分の作品を発表する個人のホームページ運営に入れ込んでいる。

 そのホームページも大手に育った。

 あれだけの大手になれば、ともすれば出版社から声がかかるかもしれない。

 いまはインターネットからクリエイターが拾われるご時世だ。

 勘の良さというか、才覚というか、センスのようなものを持っているのは間違いないやつだ。

 そんなアホの背中に向かって問いかけた。

「ヤスシ、マジでゼロから何するのか考えるのか?」

「もちろん。まあ『社会』っていうぐらいだからネットワークを作らなきゃな」

「オフラインで? メールのやり取りとか?」

「悪くないけど、もっとアナログな何かがしたいな」

「おーい」

 一人取り残されたタローが割って入ってきた。

「インターネットとか大手とかよく分からんけど、俺、卒業したら東京の専学に行くっていってあるよな? 受験対策もあるし、ワケわからんことに巻き込まれる暇なんてないぞ」

「ああ、それがあるか。そもそも何するかも決まってないけど、負担はかけたくないな」

 こいつ、本当の本当に何も考えてなかったんだな。

「したら同人サークルもちょっとキツいよな?」

 タローは、当たり前だろ、と絵に描いたような表情を見せた。

「ええと、ネットワークを作るからには何かのやり取りが必要で、それも進学の負担にならないもの、か。限られてくるな」

 ふと、思うところがあって口を挟んだ。

「お前さ、頭の使い所を絶対間違ってるって」

「俺? そりゃ伊達にアホのヤスシで通ってねえよ」

「違う違う。いい線は行ってると思うんだよ。お前、考える力はあるんだからさ」

「おい、カズ、お前まで巻き込まれかけてるぞ」

 タローは呆れた口調でいった。

「分かってる。でもさ、漫研のメンバーって俺らだけだべ? 卒業してから近況報告するのも悪くないな、って」

「文通でもするのか?」

「まだ分からない。俺とお前は進学するから、受験対策の息抜きにでもなれば、ぐらいに考えてる」

 タローはなおも不服そうに、

「まあ、確かにプレッシャーはあるけどさ。俺、百歩譲って、読むとしても描くとは限らないぞ?」

 それを傍で話を聞いていたヤスシが、

「それでいいよ、緩くやっていこうや。よし、思い立ったが吉日! 俺が創刊号担当でいいな?」

「どうぞお好きに」

 俺の言葉にタローもうなずいた。

 ヤスシは喜び勇んで机に向かい、ネームを描き始めた。


 〈2026年某日〉

 ヤスシのアシスタントの女性、ペンネーム『疲れた人』は見るからに体力がなさそうだった。

 心配になるぐらい細身で小柄。

 それでいて、顔の血色はいいし、目はしっかり輝いている。

 単に食が細いだけではなさそうだ、とぼんやり思っていると、俺の頭の中を見透かしたようにヤスシがいった。

「こう見えて一度も倒れたことがないんだよ。むしろ若いころの俺のほうがよく倒れてたな」

「先生、こないだもインフルエンザの予防接種をサボってリモートワークになったじゃないですか」

「ああ、そうだった。あのときはスマンかったね」

 はあ、と『疲れた人』はため息とともにうなだれた。

「ええと、何て呼べばいいかな? 『疲れた人』さん、だとちょっと呼びにくいというか」

「なんでもいいです。本名が『ツカ』なのでそっちでもいいですよ」

「『ツカ』?」

「漢字にすると『首塚』の『塚』です」

 もっといいたとえがあるだろうに。

「ま、仕事場ではツカちゃんで通ってるから」

「早くいえよ、そういうことは。ああ、ツカさん、今日はこんなところまで来てくれてありがとうね。俺のことはカズとでも呼んでください。禁煙の店ならどこでもいい、っていってたからこんな適当なところにしちゃったけど」

 このファミレスは駅直通のチェーン店だ。

 昼飯時を避けたので空席が目立つ。

「むしろありがたいです。お腹空いてるんで何でもいいから早く食べたいですし」

 ずいぶん体格にそぐわない台詞だな。

 ヤスシは呑気に、

「おう、飯でも食いながら話しようや。俺が奢るから。あ、ツカちゃんも遠慮しなくていいからな」

「いつも遠慮してないじゃないですか」

 細身の割に気が強そうな口調だった。

 どうやら、この女性はメンタルとフィジカルが見事に逆転しているらしい。

 メニューを開き、ツカさんにモバイルオーダーを頼む。

「なあ友よ、いまの世の中、こんなところまでスマホだぜ? 俺たちの輝かしいウラ社会はどこにいっちまうんだろうなあ?」

 はいはい、と適当に相づちを打ちつつ、俺も似たようなことを思っていた。

 インターネットなんてアングラだった代物が、いまや人類を飲み込もうとしている。

 Web2.0に失望していたあのころ、自称オタクが雨後の筍のように増え始めたあのころ、スマホが登場したあのころ。

 インターネットという狭く痩せた畑から、とんでもない勢いで、とんでもないものが育ちつつある。

 そして、昨今なにかと世間の注目を浴びる生成AIですら、テクノロジーの進化の通過点に過ぎないのだ。

 いい加減、テクノロジーの暴走についていけなくなりつつある。

 俺たちのウラ社会が消滅する頃、この世界にはどんな化け物じみたテクノロジーが跋扈していることだろう。

「ツカちゃん、カズに話してあげたら?」

 その言葉に視線を上げると、ヤスシは無地のメモ帳の上にペンを走らせていた。

「どこから話します?」

「ありのままを」

 またそうやって丸投げするんですか、とツカさんはぼやいた。

 ヤスシは気の抜けた相づちを打ちながら絵を描く手を止めなかった。

 昔から、こいつは暇を見つけては紙に絵を描く癖がある。

 即興で、ラフスケッチ程度の絵ではあったが、いまもまだ続けているのなら膨大な数をこなしたことになる。

 こうした小さなことにどこまでも真剣でいられるのはこいつの強みだ。

 一度、イラストレーターのほうが向いてるんじゃないのか、とからかったものだ。

 本人は、珍しく強い口調で「漫画を選ぶ」と宣言した。

 蓋を開けてみたら大正解だったというわけだ。

「ええと、カズさん、とおっしゃいましたよね」

 うん、と返すと、

「はい、これが“幻の第八号”とかいうやつです」

 ツカさんは椅子の上に置いたリュックから古びた大きな封筒を取り出した。

 角形二号ほどのサイズだ。

 はあ? と間抜けな声を発してしまった。

 ちょうど料理が届いたところで、店員がちょっとびっくりしていた。

 というより、引いていた。

 恥かいちまったな、と後悔しつつ、いっぱしの社会人として何とか気を取り直し、

「ツカさん、ありがとう。ここで開いて汚しちゃったらマズいから、帰ったら読むことにするよ」

「それがよさそうですね」

「で、どうしてあなたがこれを持ってたの?」

「中川正太郎のことは覚えてますよね?」

「もちろん」

「正太郎は私の遠い親戚なんです。この先生のところには正太郎の紹介で雇ってもらいました」

 今度こそ顎が外れそうになった。

 近くの席から好奇の視線を感じる。

 片や、ヤスシはさっそく料理を口にし始めていた。

 こちとら食欲が失せかけてるというのに。

 ツカさんは、湯気をあげるドリアに時々視線を落としながら、それでもまだ口をつけずに話をつづけた。

「まあ、親戚といっても友達に近いですけど。はとこなのか、またいとこなのか、よく分かってないぐらいで。私、地元が道南のほうなんですけど、私の実家のお向かいさんが正太郎のおじいちゃんおばあちゃんの家だったんです。夏休みとかよく遊びましたよ」

 その地元とやらは、道民でも耳にするのが稀なほどの片田舎で、正直なところ村なのか町なのかも分からなかった。

「お正月に帰省したときに正太郎がいってました」

 一人一杯までと決めて頼んだ赤ワインが届いた。

 ツカさんは唇を湿らせる程度にワインを一口飲むと、

「ヤスシのいう通りだった。やることをやっておいてよかった、何もしないことが一番危なかったから、って。私の専門学校時代は、何ていうか、ありきたりなこと言うなあ、ぐらいに思ってたんですけど、いざ仕事をする立場になると、本当にその通りだなあって」

 俺からも同じ言葉をかけたいぐらいだ。

 大した行動を起こさず、惰性に任せて生きてきた四十三歳がこの俺だ。

 あの頃、たとえ漫画の道に進んだところで、俺程度の実力ではいまより悲惨なことになっていただろう。

 でも。

 この人生が悪くない、なんて露ほども思ったことがない。

 ほんのちょっとだけ、冒険しても許されたんじゃないか?

 とはいえ。

 冒険しない選択をしたのは、他の誰でもない、俺自身だ。

 かさぶたをはがされるような痛みを、ほんの一瞬だけ覚える。

「それで、ツカさんも日々修行というわけだね」

 でも、次の瞬間には忘れていた。

 後悔を紛らすことぐらい器用にならないと、この人生は務まらない。

「そうですね。何だかんだで、この人の下で下積みしてもうすぐ三年ですね。いい加減独り立ちしたいです」

「そうそう、その意気だよ。俺の下で腐ることはない」

「先生、ちゃんと食べ物を飲んでから喋ってください。本当にイヤなんで」

 毒づき合う二人を尻目に、何となく居心地の悪さを感じながら、ちょっと熱すぎるカルボナーラをフォークに巻きつけた。

 できることなら、いますぐ家に帰って“幻の第八号”に目を通したかった。


 <2001年某日>

 高校三年生の例に漏れず、漫研でも迫りくる進路について話すことが多くなった。

 タローは薄情なぐらい淡々とヤスシにいった。

「まあ、お前は進学しないとは思ってたよ。むしろお前が受験勉強するところなんて想像つかないわ」

「そうそう、んな金も暇もないしな。どうせなら現場で修行しながら稼ぐ。んで、実力つける」

 ヤスシはそこら辺にあった裏紙に即興で絵を描いていた。

 俺は、老婆心がすぎるかもしれないと思いつつも、どうしてもこの話を看過できなかった。

「タロー、少しは喝入れてやれよ。こいつ、その気になれば国公立も射程範囲なんだし」

「俺はそこまで人に干渉したくない」

「なしてよ」

 少し腹が立った。

 タローは相変わらずの口調で、

「夢を捨ててサラリーマンになれ、っていうほうがおかしいだろ。仕事と受験勉強に頭使うか、漫画に使うかの違いだべ?」

「そんな簡単な話じゃねえべや」

「あのな、カズ」

 タローは、まあ話を聞け、というような身振りで、

「俺らはそろそろ子供じゃなくなる。進路を決めるのはこいつの勝手だ。親が何でもかんでも決めるヤツもいるだろうさ。でも、こいつの親御さんは、好きにしなさい、とだけいってる。そうだな?」

「おう」

 でも、と反論しかけて、言葉を飲み込んだ。

 タローの意見にすべてが集約されていたからだ。

 正論に打ち負かされた、というのではない。

 そうではないのだが、いつも、タローの言葉には不思議とこちらが納得させられてしまう力が込められている。

 アホのヤスシとは違って。

 ここは引き下がろう。

「まあ、それもそうだな」

 そう、そろそろ子供じゃなくなるんだから。

 それに、アホも吹っ切れれば到達するところまでするかも知れないしな。

「ヤスシ、余計なお節介焼いちまったな」

「別に気にしてないからいいぞ」

 ヤスシは相変わらず心ここにあらずといった風に絵筆を執っている。

 気にも留めないということなのか。

 俺ごときの言葉がどうでもいいのか。

 どっちの意味なんだろう。

「俺がカズの立場なら同じことをいうと思うし」

 そっちか。

「つまり、リスクは覚悟の上だと」

「リスクだらけだろ、こんなギャンブルは」

「え?」

「毎日の努力なんて、こんなリスキーなことはないからな」

 話が飛び飛びになって追いつけない。

 そんなことはお構いなしにヤスシは続けた。

「努力は裏切らない、ってよくいうだろ? あの言葉にどれだけの人間が裏切られてきたと思う? 言い出しっぺの野郎をスリッパでぶっ叩きたくなるよ。俺は”世界一”の漫画家になるのが夢だ。あ、そういえば”世界一”を目指してるって、お前らに話したことあったか?」

 俺とタローが、ない、と異口同音に答えた。

「世界一を目指さないと中途半端な努力しかできないからな。努力は平気で裏切る。でも、夢をかなえるのに努力は必要だろ? 少なくとも漫画で食っていくならそうだ。一度決めたら、死ぬほど努力するしか道を進む手段がない。それも、世界一の努力だ。だから、将来の肩書の頭に”世界一”って付け加えたんだ」

 部室から余計な物音が消える。

 三人で作業に没頭しているときとは全く違う静まりようだ。

「さっきギャンブルっていったべ? 努力に費やした時間は二度と取り戻せない。泣いても笑っても、二度と、取り戻せない。たまに『積み重ねた努力は決して無駄にならない』とかいうヤツがいるじゃん? うちの校長とか。アレ、ある程度は当たってると思うよ。でも、俺は、夢に向かって積み重ねた努力を別の何かに活かすのがそもそも嫌だな。他人は知らんけど、俺は嫌だ」

 今度は本物の静けさが訪れた。

 タローの胸中は分からないが、俺と似たり寄ったりのことを考えているだろう。

 ヤスシがこれほどの覚悟を決めていたなんて、と。

 ずっと、勢い任せで夢を追いかけているのかと思っていた。

 だが、覚悟を決めたからこそ、あの本棚の漫画と書籍を片っ端から読み切ることができたのだろう。

 はっきりいって漫研の蔵書をすべて読破するのは並大抵のことではない。

 本棚は壁の一面をほぼ占拠していて、在学中に制覇できればそれだけで自慢のタネになるぐらいの漫画や小説、ノンフィクションの類が収められている。

 それを、こいつは二年生に上がったばかりの頃、すべて読破してしまった。

 熟読しているものもある。

 ただ好きで読んでいるだけだと思っていたし、実際好きなことには変わりないんだと思う。

 それを差し引いても、あれがすべて頭に入り、血肉になったとしたら、離れ業としかいいようがなかった。

 俺が二の句を継げないでいると、タローが自嘲気味にいった。

「俺は、デザインに鞍替えして正解だったよ。漫画に関しては、お前ほど努力できないしな」

 ヤスシは、おどけた風に「まあな」なんて応えた。

 じゃあ、このなかで一番努力してないのは誰だろう。

 俺じゃないか。

 俺は大学に進むつもりだから受験勉強ぐらいはしている。

 その大学の学費だって親任せだし、大卒という肩書を武器にするために進学するようなものだ。

 おまけに、就活に失敗したら、漫研の先輩の伝手を頼りにして小さい会社に入る道もある。

 ヤスシはそんな生ぬるいことを考えていなかった。

 こいつ、退路を絶ったんだ。

 崖っぷちで博打してるんだ。

 もう、偉そうなことは何一ついえなかった。

 言葉をかけるなら、ひとつしかなかった。

「頑張れよ、ヤスシ」

 ヤスシは相好を崩した。

 いつもの見慣れた『アホのヤスシ』の顔でありながら、ただのアホには見えなくなってしまった。


 〈2026年某日〉

 食事中、ヤスシのスマホが鳴った。

 うんざりしたような口調で、

「この着信音、編集からだ」

 そういって、ポケットの中から取り出した皺くちゃの五千円札を二枚、テーブルに置いてタクシーで仕事場に戻ってしまった。

「正直な話、好きなようにタクシー使える身分は羨ましいわ」

「それ、私も思います。先生がお金を使う暇もないだけなのは分かってるんですけど」

 ツカさんとはだいぶ打ち解けた。

 安ワインが気分をほぐしてくれたようだ。

 ツカさんは、もはやこちらから何をいわなくても喋るようになっていた。

「先生には、なんだかんだで感謝もしてるんですよ。腹立つことも多々ありますが」

「腹立つのは何となく想像がつくよ。で、何に感謝してるの?」

「最近気づいたんですけど、先生、わざと仕事を丸投げしてくるんですよ。それも、私と新人の子に。もう一人の人はプロアシだからちょっと違うんですけど」

 プロアシとは『プロアシスタント』の略で、修行中のアシスタントとは違い、アシスタントそのものを生業にしている。

「ええと、わざとっていうのは?」

「そのほうが何だかんだで実力が着くんですよ。これはうまく言葉にできません。それに、これは穿ちすぎかも知れないけど、メンタル面っていうか、理不尽なことにも耐えられるようにトレーニングさせられてるんじゃないか、って思うことがあります」

 へえ、と気のない返事をして、ふと、思い当たることがあった。

「あいつ、そんな根性論者だったっけ?」

「それはないですね。私がアシで入ったときから一週間に一回ぐらいダイエット宣言してるのに、お酒ガブガブ飲んでますから」

 昼酒なので酔いが回っているのだろう、ツカさんのほんのり赤らんだ顔がほころんだ。

 やっぱり、ヤスシとの信頼関係あってこその辛辣なやり取りだったんだな。

「もっといえば、仕事なんて理不尽で当たり前、ってことを叩き込まれてる感じですね。先生自身も、編集からしょっちゅう怒られるし、無茶なこといわれたりするから。これから先、何十年も仕事を続けるために稽古を付けられてる気はします。まあ、仕事といっても漫画業界しか知らないですけど」

「それはヤスシも同じだわ」

 二人して笑った。

「ところでさあ、ツカさん、ずいぶんメンタル強く見えるけど、ヤスシってそんなに厳しいの?」

「いえ、まったく。私はもともと気が強いですよ。でも、アシ始めた頃はさすがに心が折れそうになったかな。あれから何だかんだいままで続いてる、ってことは、知らず知らずに鍛えられたのかも知れませんね」

 ふうん、とまた腑抜けたような返事をした。

 この歳になると若者に説教を垂れたくなることがある。

 もっと歳を重ねればもっとそうなるだろう。

 でも、この子には逆に叱咤してもらいたいぐらいだ。

 踏ん張れる時期にちゃんと踏ん張っているだけでも、昔の俺とは大違いだ。

「でもね」

 不意にツカさんが柔らかな口調で話し始めた。

「先生が一番大変なんですよ。お酒だってストレスのせいで辞められないし、インフルエンザの予防接種も、時間が取れるか取れないか、っていうときに漫画を優先したから予約を延ばしたんです。それにね」

 こういう口調で喋ると、やっぱりあどけなさが残る年頃なんだな、と今更ながらに思った。

「人に仕事を任せるのって、大なり小なり勇気が要るじゃないですか。初めからワンマンの人も居るし。それ、サラリーマンも同じですよね?」

「そうだね。うちの会社の社長がガチガチのワンマンだわ。人望も実力もないくせに」

「それはイヤですね。先生はその真逆かな。これは任せるよ、責任は俺が取るからのびのびやって、ってニコニコしながらとんでもない量の作業をよこすんです。で、私たちが失敗しても、本当に責任取ってくれるんです。倒れそうになりながら」

 思わず大笑いしてしまった。

「やっぱりおかしいですよね、漫画家としても人間としても」

「いや、そうじゃないんだわ」

 まだクツクツ笑いが収まらない。

 漫研時代、ヤスシが空き教室の掃除当番をサボったことがあった。

 それも一度や二度じゃない。

 札幌の美術館に名作が来たら我慢できずに学校を飛び出すし、知る人ぞ知る映画館のスケジュールを優先して、漫研を丸ごとサボったこともあった。

 その無責任ぶりに堪忍袋の緒が切れて、一度、あいつに正座させてガッツリ焼きを入れたことがあったのだ。

 その一件以降、ヤスシは学校を休まない限り真面目に掃除するようになった。

 四年後、俺が新卒で勤め始め、ヤスシがアシスタントの身分だった頃、札幌の安い居酒屋で安酒を飲みながら、

「あの説教、マジで効いたんだわ」

 と照れくさそうにいったものだ。

 あのヤスシが心底堪えたということは、よほど俺の剣幕にやられたのか、生まれて初めて責任という概念を知ったのか。

 その両方かも知れない。

 そのことをツカさんに話すと、

「それ、絶対いまでも効いてますよ。先生、何があっても原稿を落とさないことで有名ですから」

「もちろんアシの皆さんのおかげもあるよね?」

「ええ。でも、やっぱりアシが何をやらかしても責任を引き受けてくれますね。今回は俺が直す、そして今後のためにたくさん失敗してくれ、って。ゆくゆくは業界のためにもなるから、とかいってましたね。居酒屋でベロンベロンになりながら」

「やっぱし酒かい」

 今度は二人で大笑いした。

 ヤスシの置いていった五千円札で会計を済ませ、お釣りはツカさんに受け取ってもらった。

 ものすごくあたふたしながら断られそうになったが、何ならヤスシに返せばいいから、といって、お釣りとレシートはツカさんの財布に納まった。

 地下街を抜け、十字路に差し掛かった。

「俺、チカホ歩いてすすきの駅に乗らないと行けないんだよな」

 チカホとは『地下歩行空間』のことで、いま歩いているところから地下鉄の南北線すすきの駅を目指すなら地上を移動するより早いし、何より運賃が多少浮く。

「私、東豊線です」

「あ、そうなんだ。したらここまでだね。また何かの機会があれば会おうね。二人でヤスシの悪口でも叩こうや」

「それ、額面通り受け取ってもいいですか?」

「いいよ。ツカさんも『ウラ社会』の一員みたいなもんだし」

 別れ際、ツカさんはお手本のようなお辞儀をした後、今度は居酒屋希望です、といい残して帰っていった。

 ふう、とため息をつく。

 いつもの疲労を吐き出すようなため息ではない。

 充実感にあふれたため息だった。

 家に帰った後の段取りはもう決まっていた。

 さっそく『ウラ社会通信』の原稿に取り掛かろう。

 この満ち足りた気分の余韻をずっと味わっていたい。

 それに、今日ぐらい、夜更かししたっていい。

 【了】