火織譚〔ほおりばなし〕8話――蒼丞(上)

 飛び起きたとたん、自分が真っ暗などこかで寝込んでいたことに気づいた。

 眠る前の出来事を思い出す。

 そうだ、荒鏑〔あらかぶら〕の工場群でならず者たちに喧嘩を売られたんだ。

 それを適当にいなして、ひたすら駆けて、連中を撒いて……

「目が覚めた?」

 暗闇から女の声がする。

 並の男なら素っ頓狂な声を上げていたところだろう。

「『さくら』さんか」

「お月見してたの。まだ寝ぼけてるの?」

「いや、大体のことは思い出したよ。恩に着る」

「そんな大げさな」

 『さくら』は苦笑いして、

「今夜はもう寝られないでしょう。灯りをつけますね」

「そんなに気を遣わなくて大丈夫だ」

「こっちこそ大丈夫。この蠟燭、値が張ったわりにほとんど使いませんから。それに、たまには夜更かししてみたいわ」

 『さくら』は明らかに噓をついている。

 いくら下等なものだとしても、値の張らない蠟燭などないのだから。

 ほどなくして、蠟燭が一本だけ、燭台とこの東屋をほの明るく照らした。

「ここにも電気が通ればいいんだけど」

「すまんな。あんなに走らなきゃ長居しなくて済んだのに」

「そう、気になってたのよ。どうやったら荒鏑から駆け足でこんなところまで来られるの?」

 そうか、この歌札師はなにも知らないんだった。

 俺には親方と寛光〔かんこう〕ぐらいしか親しい人間がいない。

 さて、どこから話せばいいものか。

「年端もいかないころから散々鍛えられたんだ」

 結局、肝心なところから話し始めることにした。

「宗蒼〔しゅうそう〕流武術、って聞いたことないか? 邑咲〔むらさき〕から少し離れたところに道場があるんだが」

「ごめんなさい、初めて聞くわ。名が知れてるの?」

「いいや、それほどでもないかな。親父が師匠を務めてた武術の流派なんだ。……なんだかあいつを親父呼ばわりするとしっくりこないなあ。物心ついたころには”師匠”と呼んでたしな。母は俺を産んだときに死んじまったから名すら知らないよ」

「そうだったの。その武術で鍛えられたってこと?」

「ああ。うちの流派は代々長男だけ継承する決まりがあった。師匠と俺の二人だけで、朝も夜もなく稽古をつけられたもんだ。あれは厳しいなんてもんじゃなかった。よく死ななかったな、と思うぐらいだった。寝てるときに殴られて無理矢理起こされて、その場で腕立てを二百回やらされたこともあった。それも一度や二度じゃない。小便に血が混じるなんてザラだったよ」

「その稽古に耐え抜いたのね」

「師匠を殺すまでは、な」

 薄明りのなか『さくら』の顔がこわばったのが見て取れた。

 弦が張り詰めるような沈黙が降りる。

「元服の日だったよ。元服の儀の最後に、師匠と稽古する決まりになっててな。『殺すぐらいのつもりでかかってこい』といわれて、本当にその通りになっちまった。おっと、米氣〔さけ〕も煙草も遠慮しなくていいぞ」

「そう? じゃあお言葉に甘えて一服しようかしら」

 やはり動揺させてしまったらしい。

 だが、俺と『さくら』さんの仲だ、包み隠さずいままでのいきさつを話すのが筋だろう。

 まあ、恋仲というわけじゃないが。

 『さくら』さんが煙管の火種を煙草盆に落とすのを待ってから続けた。

「お縄になる覚悟で帝都守衛を呼んだよ。”この度の一件は故意にあらず、はなはだ不幸なる偶然”としてお咎めなしだったけどな」

 話しているうちに、往時の記憶が蘇ってくる。

「気が付いたら一人になっちまってた。何をしていいか分からなかった。本当に分からなかったんだ。いままですべて師匠の言いつけどおりに物事をこなしていたからな。情けない話、あてどもなく歩いて、たどり着いたのが邑咲の酒場だった。訳も分からず酒場に入って、呑んで、生まれて初めて酔ったよ。もう少し吞んでたら悪酔いするところだった。そこに男五人から喧嘩を吹っ掛けられてな。虫を追い払うぐらいの気持ちで相手してやったのに、気づいたら派手に店を壊していた。そのとき、初めて自分の強さを知ったんだ。この拳は振りかざしちゃいかん、また人を殺めることになる、ってな。ともかく、店をめちゃくちゃにしてしまったもんだから、相応の金を払うか、用心棒になるか選べ、って亭主に迫られたもんだ。それで困り果ててたところに、いまの親方に報せが行ったんだ」

「厚琳鴈〔こうりんがん〕さんに? あの人、そこまで顔が利くの?」

「いや、あそこら辺を取りまとめていたのは別の旦那だ。夜遅く屋敷に招いてくれてな。いろいろ話をしたんだ。そうしたら旦那の弟分が人手を欲しているといって、いまの親方を紹介してくれた。それで、親方に付いて商いを学べることになった。喧嘩はしない、身を守るのにやむを得ないときを除いて拳を振るわない、という約束でな」

「それでならず者たちを撒いたのね」

「長々と話しちまったが、そういうことだ」

 『さくら』さんは長いこと黙りこくっていた。

 俺も何するでもなく蠟燭の灯りを見やっていた。

 さすがにお暇したほうがいいか、と思った時だった。

「蒼丞さんがそこまで話してくれたんですもの、私の身の上話もしなくちゃね」

「無理にとはいわんぞ」

「いいの。身の上を偽って生きるのは、それはそれは息が詰まるものなのよ」

 それはそうかもしれない。

「蒼丞さんなら打ち明けてもいいような気がするの。あなたと肩を並べるぐらいには荒波に揉まれてきたつもりですよ」

 蠟燭の明かりに照らされた『さくら』さんが、いままで見たことのない顔をしていた。

 恐ろしいほど表情がなかった。

 微笑すら浮かべないその顔を、何故か美しいと思った。

「私、神府で生まれ育ったの。元の名前は『ことぶきのひめみこ』といいます」