歌札を買い取りに来たのは寛光〔かんこう〕さんだった。
「本当は蒼丞が伺うはずだったんですがね、手前どもの親方に荒鏑〔あらかぶら〕の工場から用事が舞い込んだんです。大した用事でもないので、親方の代わりに蒼丞が向かった次第です」
確かに親方の厚琳鴈〔こうりんがん〕さんは顔が広い。
それはそうとして、いくら蒼丞さんが逞しいといっても荒鏑まで走れるとは思えない。
そのことを寛光さんに伝えると、
「それが、走れるんですよ。握り飯を五つ食って、腹ごなしだといって駆けて行ってしまいました。そのうち、宵の口にでも戻ってくるでしょう」
「それはいくらなんでも無茶でしょうに」
蒼丞さんが来てくれなくて少し落ち込んでいたけれど、いまは耳を疑うやら呆れるやらだった。
「まあ、信じられなくて当たり前ですよね。手前も、あれが弟子入りしてきたときは度肝を抜かれましたから」
そうですか、とまだ信じられない気持ちを抱えながら、寛光さんに歌札を買い取ってもらった。
また一人になって、どっと疲れが湧いてきて、そして空しくなった。
あんなに蒼丞さんとお話するのを楽しみにしていたのに。
本当に、人の生きる道はでこぼこで、ぬかるんでいて、長いのか短いのかわからない。
俗世に身を置くとなおさらそう思う。
神府で籠の中の鳥のように育てられ、神籍を棄てたのが十五のとき。
神府から逃げ出して、邑咲じゅうをさ迷った挙句、ここに身を隠して、ずいぶん泣き明かした。
でも、強くなるしかなかったから強くなった。
もう私は『ことぶきのひめみこ』じゃない。
歌札師の『支茂瀬のさくら』だ。
これからも歌札を書き続けて、年老いて、死ぬ。
神府で息の詰まるような暮らしを続けるよりは余程いい。
そのときまで、この稼業で暮らせるかどうかは分からないけれど。
お茶でも汲もう、と思って立ち上がった、ちょうどそのときだった。
「すまん、かくまってくれ!」
「蒼丞さん!?」
腰が抜けるかと思った。
「喧嘩に巻き込まれちまったんだ。すまんが、水を一杯……」
蒼丞さんの目は虚ろだった。
気が動転しそうになったけど、すぐに自分の気持ちを落ち着かせて、蒼丞さんに肩を貸して井戸水を何度も浴びせかけた。
それから塩を入れた水をたっぷり飲ませる。
暑さにやられた人にはこれに限る。
ここの古強者から教えてもらったやり方だ。
ほどなくして、蒼丞さんの体から熱が抜けたらしく、
「『さくら』さん、助かったよ。この礼は必ず……」
「いいから、いいから。もっとお水を飲みます?」
「いや、充分だ。それと、喧嘩を吹っかけてきた連中は撒いた。ここには来ない」
「分かりました。さ、上がって」
ぼろぼろの仕事着は少し湿気ていたけど、幾ばくもなく乾くだろう。
ふと、気にかかることがあった。
喧嘩に巻き込まれて、仕事着はぼろぼろになっているみたいだけど、蒼丞さんの顔にも手足にも、傷ひとつついていなかった。
青あざのひとつぐらい拵えても不思議ではないだろうに。
蒼丞さん、そんなに喧嘩が怖いのかしら。
だから、こんなにくたくたになるまで走って逃げてきたのかしら。
それはそれで悪いことじゃないけど、馬のような足、丸太のような腕をした蒼丞さんなら、そこら辺のごろつきどもの相手ぐらい務まりそうなものだけど。
精魂尽き果てたように仰向けになる蒼丞さんを見て、ふと思った。
この人も、何か秘密を抱えて生きる身なんじゃないか、と。