夢岸が商いの喧騒を響かせ、荒鏑が工場の熱気で賑わうとしたら、この国の都、邑咲は、絢爛に華やいでいるとしか言い表せない。
人々は思い思いの装いをして、揚げ菓子や団子を歩き食いし、この間出来たばかりの百貨店を冷やかす。
夜になれば、酒を飲みながら、西方かるた――「カード」というらしい――で賭けをする。
かるたでぼろ負けした亭主が女房のご機嫌取りをする、という定番の芝居が最近受けているらしい。
これが邑咲の表の顔だ。
邑咲の外れの貧民窟のうち、支茂瀬はとりわけ疎まれている。
道すがら、風が支茂瀬の汚泥の臭いを運んできて、潮の香りと混じって肉が腐ったような臭いとなり、鼻をつく。
舗装が途切れ、砂利道となり、埃のような砂煙をあげた。
そして、この貧民窟に足を踏み入れた途端、蠅と蚊の歓迎を受けることになる。
野良猫や野良犬の糞があちこちに転がっていて、誰もかまう様子がない。
それどころか、子供たちが牛小屋のような東屋から飛び出してきて、鞠で遊んで泥まみれになる始末だ。
とはいえ、ここの人たちはちゃんと井戸水を浴びている。
獣のような臭気を放つ船乗りたちよりよほど小奇麗だった。
毎日一度は水を浴びないと病が流行る、というのが彼らの言い分だ。
『支茂瀬のさくら』もそれに倣っていると信じたい。
いや、日に二度、三度と水浴びしていてもいいぐらいだ。
今日は久々に初顔合わせの客を相手にすることとなる。
『さくら』が無類の米氣〔サケ〕好きだと聞いたので、手土産に米氣の瓶を一本仕入れた。
いま、こうして瓶を抱えていても、まったく飲みたいと思わない。
それどころか、えずきそうになる。
俺の体から米氣が抜け切ったのだろう。
手拭いで顔の汗を拭き、一軒の東屋に向かって声をかけた。
「ごめんくだせえ、歌札卸の蒼丞〔そうじょう〕と申します。厚琳鴈〔こうりんがん〕の弟子です。札をいただきに参りました」
ちょっと待ってくださいね、といいながら、建付けの悪い木戸をがたがたと開けて『さくら』が姿を見せた。
大人びた娘にも見えたし、あどけない顔立ちの年増にも見えた。
背丈の割には細身で、長い黒髪を首の後ろあたりで束ねている。
よく通った鼻筋は火織人らしくもあり、西方の血が混じっているようでもある。
あまり外に出ないのだろうか、かすかに日焼けしただけの肌は商家の箱入り娘を思い起こさせた。
もっとも、目の前の客の着物は粗末な木綿だ。
「ご苦労様、新顔さん。少し涼んでいきますか?」
「そりゃありがてえ話ですが、まだ回らなきゃいけないところがあるんでさあ。あ、これはほんの気持ちですが」
米氣を差し出すと『さくら』の顔がぱあっと輝いた。
どうやらこのお得意様の米氣好きは筋金入りらしい。
「蒼丞さん、とおっしゃったわね。あなたも一杯どうです?」
「手前は酒を辞めたものでして」
「いやだ、私のほうが呑みにくいじゃない。なんていっても仕方がないですね。はい、この度の歌札です」
「改めさせていただきます」
西洋のカードと同じぐらいの寸法の台紙に、桜や菖蒲、梅が墨で書かれている。
合わせて十七枚。
墨の花に一筆添えられているが、これは適当でもいい。
もっといえば”文字もどき”を書くだけでも通用する
西方人にはこの風情が受けるのだ。
いつもなら一枚につき銅銭三枚、十七枚なら五十一枚の計算だが、今日は初顔合わせなので景気よく六十枚で買い取った。
早くも米氣を飲み始めた『さくら』は、みずから書いた札を眺めて、
「本当にこれが向こうで金貨に化けるのかしらね。いつも不思議なの」
「本当ですよ。船乗りの話を信じれば、ですが。向こうの人間の考えていることはよくわからねえや」
そうね、と『さくら』はクスクス笑い、
「次もよろしくお願いしますね。こんなところでよければ」
確かに”こんなところ”だけあって、そろそろ汚臭が堪えてきた。
世間話もほどほどに、貧民窟から切り上げることにした。
それにしても、どうしてあんな別嬪がボロ屋暮らしに甘んじているのだろうか。
歌札卸の仕事にありついて、ずいぶん多くの客とその歩みを見てきたが、あの『さくら』とやらが一番つかみどころがない。
そんな物思いも、支茂瀬から離れてまともな風を肺いっぱいに吸い込むうちにうやむやになった。